そう呟くように何度か繰り返した後泣きじゃくって顔を伏せてしまった。
「何があったんだって……泣かないで教えてくれよ……」
そう言っても彼女は顔を上げなかった。
結局数十分そのままだった。数十分後落ち着いたのか彼女は再度顔を上げ、言った。
「……もう……一緒に居られないの……」
「え……? どうしたの? 急に……」
「私ね……私ね……結婚……するの……」
「え……? 何言ってるの……?」
突然こんなことを言われたらそりゃパニックになる。よく考えたら彼女と出会ってからパニックになりまくってた気がする。ここで「え? あ、俺と?」と切り返せる奴は尊敬する。
「お見合いしてきたの……」
「え?」
「ごめんね……ごめんね……決まってたの……本当は……本当はもっと前に結婚するはずだったの……」
「どうゆうこと……?」
「本当はね……7月にお見合いするはずだったの……」
7月はMの姉の葬儀があった頃で、俺たちが出会った頃である。
「それって……俺たちが出会った頃だよね……?」
「……うん」
「なんで……俺と……付き合ったの……?」
「もっと……もっと早くお見合いして……結婚するはずだったの……。けどね、35歳ニート君に出会って……好きになって……お見合いしたくなくなって……」
「じゃあなんで今更!」
「約束だったの……。無理言って……今年の4月までは……好きにしていいって……けど4月まで……4月には結婚しなさい……って」
これには愕然とした。そりゃまぁ今考えればこれだけのお嬢様だ。冷静に考えたらお見合いで結婚するなんてことはありきたりな話なんだけど。最初の予感は当たらずとも遠からず。決して外れたわけじゃなかった。
「今まで俺を騙してたの……?」
そんな台詞を言う資格なんてまるでないはずなのに言ってた。馬鹿だ。けどやっぱり騙された感は否めなくて、自分のことを棚に上げた。
「違う! 騙すつもりなんてなかった! けどね……けどね……」
「じゃあなんでだよ! 俺のこと好きなんだろ! それとももう嫌いになったのか!? 好きならそれでいいじゃないか! お見合いなんてすることないじゃん!」
恥ずかしい。
「……好きだよ……でもね……でもね……」
ここで無理矢理手を引っ張って駆け落ちとかしてたら人生変わったのかも知れない。けど彼女と付き合ってからの俺は仮初めで、実際は何者でもなく、高卒のミュージシャン崩れで、それにやっぱり負い目はあって、そんなことは出来なかった。
結局それ以後は会話にならなかった。「なんでだよ!」「ごめんね……」の繰り返しだった。
いたたまれなくなった俺は家を出た。当てなんかなかったけど、やり場のない怒りや自分に対する情けなさでとてもじゃないけどあの場にいられなかった。電車に乗って新宿に出て、彼女と何度か行ったバーで酒を飲み、泣いた。
次第に傲慢になる俺であったが、それでも彼女に対してはそれなりに接したと思う。彼女がいなくなればそれはそのまま元の階層に戻る事になる。それは避けたかった。嫌な人間だ。
そんな俺の気を知ってか知らずか、予定されていた事だったのだろう。終わりの時は刻々と近づいていた。
1993年1月 最悪の年が幕を開けた。
この頃から段々と彼女の雰囲気が変わってきた。今までも多かったが、それ以上に俺にくれる物の数が異様に増えた。洋服、時計、アクセサリ、スーツはもちろんのこと、マクラカバーなんてよくわからない物も貰った。そして二人でいても突然物思いに耽ってしまったり、深い溜息をつくことが多くなった。何をしていてもそう。突如スイッチが切れてしまったみたいに動きが止まるのだった。どうしたのか訊いてみても、ううん何でもないと寂しそうな笑顔で返すだけだった。
そして2月が始まった。
ある朝、目を覚ますと彼女はどこにもいなかった。もちろん今までにも目覚めた時に彼女がいないことはあったが、何も言わずにいなくなることはなかった。しかし彼女も23歳の大人だ。違和感を感じつつも、そんなこともあるかと彼女の帰宅を待った。途中何度かポケベルを打つも連絡はなく、結局その日彼女は帰ってこなかった。
次の日も彼女は帰ってこず、色んな彼女の友人に連絡をしたが、誰一人として行方を知ってる者はいなかった。更に次の日、彼女から、すぐに帰るから心配しないで欲しいと電話があった。どこにいるのか訊こうとしたが、訊く前に電話は切れていた。
結局彼女が帰ってきたのは一週間近くたった頃だった。無事であったことに安堵しつつも怒りは沸点に達していた。
「どこ行ってたんだよ! すぐ帰るって言ってから何日たってるんだ! 何してたんだよ!」
帰ってくるなり罵声をあびせた。しかし彼女は質問に答えず、ゆっくりと顔を振った。
「話があるの」
そう言ってリビングへ向かった。一緒にリビングへ向かうと俺は飲みかけのコーヒーを捨て、新たに自分の分と彼女の分のコーヒーを煎れてダイニングテーブルに向かい合うように座った。彼女はうつむいていた。
彼女が何か言ってくれるのを待ったが、何も言ってくれず、妙な沈黙が流れた。
「なぁ、なにがあったんだよ。ポケベルいれても電話くれないし心配したんだよ?」
沈黙に耐えきれずそう言った。しかし彼女は何も言ってくれなかった。
「なにがあったんだって」
再度言うと、彼女はゆっくりと顔を上げた。
彼女は泣いていた。
(騙されてるだけじゃないのか……)
一度は振り払った疑念が脳裏をかすめる。それでも俺は電話を手に取った。
(騙そうとしてるなら騙されよう)
例え騙されたとしても失うのはちっぽけなプライドだけだ。
結論から言えばこの疑念は当たらずとも遠からずだったわけだが。
「もしもし」
「……はい」
「35歳ニートです。この間はすみませんでした」
「……はい」
なんだか非難されているような気がして決心が鈍ってくる。それでもここで言わなければ絶対に後悔する。それは分かっていた。この後人生最大のショックが襲ってくるのだが、それでもこの時電話したことは後悔してない。
「えっと……この間のことですが……」
「……はい」
「もし……もしまだ俺のことを好きだと言ってくれるなら……付き合ってください」
正直に言えばこの時点で勝算は5割程度だった。あんなこと言うべきじゃなかったと何度後悔したことか。
「……本当?」
「はい」
「……信じてくれるの?」
「はい」
「……」
グスグスと鼻を鳴らしてるのが聞こえた。
「良かった……」
嗚咽と共に微かに聞こえた。多分泣いてたんだろう。泣かないでとか何とか言った気がする。
そして付き合うことになった。
毎日のように会ってた。映画見たり買い物に付き合ったりと極々普通のデートだった。デート費用が全部彼女持ちだったことを除けば。平たく言えばヒモだ。
半月もしない内に一緒に住むようになった。一緒に住みだして更に見る物為す事ありとあらゆることが違うことを知った。1Rのアパートから移り住んだ部屋は別世界そのものだった。
驚く事は沢山あった。「車でどこかに二人でドライブしに行きたいね」と言った2日後にセルシオが届いたのには驚きを通り越して笑った。「オッサン臭くない?」って訊いたら「貰い物で誰も乗ってないのを持ってきただけだから」って。
何だかよくわからないパーティーのようなものに一緒に出席したのも半年で10回近くあったと思う。イケメン勢揃い。医者の息子だとか社長の息子だとかそんなのがいっぱいで俺は明らかに浮いてた。東大出身だとか早稲田出身だとか慶応出身だとかそんなのばっかりだった。パーティーの出席者は俺と彼女を見て怪訝な顔をしてた。ただまぁそれでも何回目かの頃にはそんな目にも慣れ、その後社長になった時に世話になる人物にも出会うのだけれど。
週に3回の彼女の習い事の時間以外は常に一緒に居た。習い事の時間の間、俺は以前と変わらず殆ど本を読んでいた。あまりの生活を目の当たりにし、実際その生活をしてしまうと働く気になんてなれなかった。月に20万で働けるかって。
全てのお金は彼女から出ていた。彼女は俺が働かない事を気にしてただろうか? 未だによく分からない。普通なら気にするだろうけど。プレゼントを買う時も彼女から貰ったお金だったり、彼女から貰った物を売って買ったりした。今思い出しても最悪だ。
そして全ての事に対して少しずつ尊大になっていった。
(なんで?どうして?保険金詐欺?からかってるだけ?)
電車の窓からやけに眩しいネオンを見ていた。
家に帰り、いつものように本を読み始めるも少しも頭に入ってこなかった。
(やっぱり無理)
どうせからかってるだけなんだと思っても期待は隠せなかった。何にをするにも手がつかず思い切ってSに電話することにした。
「今日Kさんから電話があったんだけどさ」
「おー電話いったか。この間お前の電話番号教えてくれって電話があって教えたよ」
「うん、電話来てちょっと会った」
「会ったんだ。なんかKさんお前のこと気に入ったらしいよ」
「ば、ばか。何で知ってるんだよ。そうか、お前もグルか。みんなでグルになって俺のことからかおうとしてるんだろ」
「はぁ?」
「だっておかしいじゃん。お前は俺のことよく知ってるよな。特に頭が良いわけでもなく顔も普通だしお金はないしって。それなのにあんなド高め、麻雀で言ったらW役満にも匹敵するような人が俺のことを気に入るなんてありえるか? ありえないよ」
「顔とか金とか頭とか関係ないだろ」
「ないわけないだろ。令嬢だぜ? そこら辺のアーパーねーちゃんとは違うんだぜ? 住む世界がまるっきり違うんだぜ?」
「愛があればどうとでもなる」
「なんねーよ。だってお前今日なんて飯食ったのAホテルのフレンチレストランだぜ? スーツで行ったからいいもののあれ普段着で行ったら追い出されてたぜ? 普段インスタントラーメンばっかり食べてる俺とどう釣り合うんだよ」
なんて一事が万事この調子だった。あまりにも高嶺の花だったから。これがただ美人なだけな人だとかお金持ちなだけの人とかだったら悩まなかっただろう。ビルゲイツからいきなり「君が必要なんだウチの会社に来てくれ」なんて言われたら大抵の人は混乱するだろう。俺はそんな気分だった。
彼女を好きかと聞かれたら、好き嫌いじゃなくてありえない、そう思ってたからこそ葬儀の時も興味が湧かなかったし、ありえないからどうでもいい、そう思ってたのだ。
そうして悶々としながら何日かたった。ある日また電話が鳴った。彼女だ。
「今日暇ですか? 良かったらごはん食べに行きませんか?」
先日別れた時、またごはん食べに行きませんか? と言われてたのだ。ニートしてた俺はお金はなくても当然暇はあった。
「平気ですけど、この間みたいにあんまり肩凝るところはちょっっっっと遠慮したいかなーなんて……」
「あっ、気がつかなくてごめんなさい」
「あ、いやそんな謝られることじゃないんですけど、ちょっと肩凝ったかなって」
「じゃあお寿司とかどうですか?」
「えっと……構いませんが……」
ラーメン屋でお願いしますなんて言える雰囲気じゃなかった。
「じゃあ今度は銀座に7時でいいですか?」
「あ、はい」
銀座でお寿司って芸能人かよと思った気がする。
電車を乗り換えて銀座に着いた。バンドをやってた頃もあまり寄りつかなかった街だ。俺みたいな人間にはいまいち馴染めない街だった。
落ち合ったあと、じゃぁ行きましょうかなんて言った彼女のあとをついていく。今でもあるのかは知らないけれど、あからさまに高級な佇まいを見せるお寿司屋さんだった。まぁ銀座の寿司屋なんて多分どこもそんなもんだったんだろうけど。
俺は寿司屋のカウンターが凄く嫌いだった。小学生の頃に親戚の伯母にお祝いか何かで連れて行ってもらってトラウマになっていた。ガキに食わせる寿司はねぇとでも言いたげな店主の目が凄く恐かったから。
(やだなぁ……)
と、思いながら彼女のあとをついていくと、彼女は座敷を選んでくれた。ホっとしたのを覚えてる。
「こっちならそんなに周り気にならないでしょ?」
彼女はそんなことを言った。俺は彼女が気にしてくれていたことにとても感謝した。
くだらない雑談をしながら食べた。そして彼女は切り出した。
「この間の返事……どうかな」
散々書いたが、ありえない出来事が起こると人はパニックに陥るものだ。慌てた俺は言ってはいけない言葉を言ってしまった。この時本心だったのか本心じゃなかったのかは、この後の出来事があまりにも響き過ぎて覚えていないが、本心だったと思う。
「あの……それなんだけど……やっぱり俺は止めた方がいいと思う。Kさんだったら俺なんかより顔が良くて頭が良くてお金持ってる人と付き合える……でしょ? 俺なんて仕事してないし学歴ないし貧乏だし、顔だってどんな頑張ったって並だよ? やっぱりおかしいよ」
思い出しても嫌な言葉だ。俺が告白してこんなこと言われたら頭にくる。怒り出すだろう。けどそれぐらいありえない話だったのだ。
そして彼女は涙を流した。
とんでもない思い違いをしてたとこの時初めて悟った。
「なんでそんなこというの……? 私のこと嫌い……?」
涙で顔をぐしゃぐしゃにしながら彼女は肩を小刻みに震わせ吐き出すように言った。泣かせてしまった後悔や、なんで俺如き、それもたった3回しか会ったことのない人物にここまでなるのか理解できずに更にパニックになった。
「嫌いだなんてそんなことないよ! けど俺なんてさっきも言ったとおり本当駄目人間を地でいくような男だから……Kさんみたいな人と付き合うだなんて……」
しばらくの間無言の空気が広がったがやがて彼女は口を開いた。
「な……なんでそうやって自分を卑下するの……? 35歳ニート君は私のこと……Kさんみたいな人って言ったけど……私だって普通だよ……」
明らかに普通じゃない彼女は今後ことある毎に自分は普通だと言っていた。
「それとも私が……私の家が……ちょっとお金持ってるから……だから付き合えない……って……そう言うの……?」
泣き出した頃より落ち着いたとはいえ、グスグスと鼻を鳴らしながらそう言った。
(そうじゃない……)
そう言いたかったが結局俺の言ってることはその通りで、反論の余地はなかった。
結局この後は会話にならなかった。店を出て銀座の駅に着くまで一言も喋らなかった。銀座の駅に着くと彼女は
「さよなら」
そう言ってタクシー乗り場へ向かってしまった。俺は一人立ちつくして彼女を見送っていた。
タクシーの順番が来て彼女が乗り込もうとした時、無意識だったのか意識したのかよくわからないが俺は走り出してた。そしてタクシーの窓に手を付き、窓越しに
「3日、3日待ってください。3日以内に必ず電話します。だからそれまで待ってください」
叫んでいた。
彼女が頷いたのかどうかは今でもよくわからない。ただ言い終わるとタクシーは走り出し、行ってしまった。
3日以内なんて言ったけれど答えなんて帰宅してすぐに出た。彼女と付き合おうと思った最大の理由は多分『好意の返報性』だろう。好きだと言ってくれて、俺なんて止めた方がいいよと言ってしまい、泣き出した彼女。既にやられてた。
そして約束の3日がたった。
